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中国語との触れ合い
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中国語との触れ合い 1
これ幸いにと、講座への参加を申し込んだ。地元での語学講座であり、お値段も格安だったから、さっそく飛びついたという次第だ。そんなことで、規定の退社時間ともなると、社員の誰よりも早く会社から抜け出たのはオッチャンである。ついでにもう一人の先輩同僚も一緒に飛び出した。 毎週木曜日に行なわれる講座に出席するためには、5時30分の終業ベルが鳴ると同時に会社を出なければならない。それでやっと、7時30分からの開講時間に間に合うのだ。そんなことで、オッチャンは社員の誰よりも早く会社を後にすると、一目散に最寄の駅へと向かった。 誰が選んだか知らぬが、当時の教科書はB5版よりも小さく、いかにも薄く、安っぽいものだったなぁ。いま取り出してみると、漢字にカタカナでふりがなが結構目立つ。こんなに出来が悪かったのか!これは発音に鈍感な、オッチャンの資質を物語る一端かも知れない(^O^)。 でも真面目に勉強はした。購入した録音装置つきの小型ラジカゼを持参し、きっちり録音し復習もしっかりやったもんだ。たが、こんな熱心な勉強家を悩ませる事変が勃発した。本業の監査役として、全国各地の監査で1年に二度はあちこちの支店や出張所に出かけねばならないのである。 ノルマのない勉強というものは、休みが続くと永続性を失う?そんなことで、一年目は半年で挫折し以後出席することなく一杯飲み屋に通うことが多くなってしまった。つぎの年もまた、同じ講座に参加した。あらまぁ、てなことでパン先生は歓迎してくれた。 |
中国語との触れ合い 2
勤め先のあった日本橋・人形町界隈の中国料理店はもとより、昼の定食屋、ファーストフッド店、そして居酒屋など様々な店で、若い中国人男女を見かけたものだ。 話がちょっと飛ぶ。 普段は要領が悪いオッチャンも、同じ酒飲みということで本部長のお供でよく高級料理店や銀座のバーなどに同行した。酒飲みは、やはり自分の都合の良い部下を連れて行くものだ。オッチャンは、そのおこぼれに預かった。ほかに話が合う部下が少なかったのか、当方が夕方からの絶好の標的とされたのだ。こちらはただ酒だから、何の不満もない。 かくして田舎者のオッチャンも、いつの間にやら都会のど真ん中・銀座の常連となって、酒と色気におぼれていった。帰宅は12時を過ぎるから、タクシーでまっしぐらに帰る。身分の一番低いオッチャン??は、順繰りに上役を家に送りとどけ、最後に我が家に帰る忠犬ハチ公となっていたのだ。 いつの世も精錬潔白のままに過ごすのは難しい。もちろん、銀座の一流高級バーでは、中国人の姿はみかけることはなかった。酔うほどに美しく見えた、日本女性(実はかなりのオバチャン)の色気と巧みな話術に攪乱される日々であった。 |
中国語との触れ合い 3
この辺はその昔、西郷隆盛などの屋敷があったところである。現代的な建物に囲まれた千代田区界隈とはまったく景観もちがうし、昔ながらの佇まいを残す街並みがあった。元々田舎の出身だから、このほうが身の丈に合ったようだ。 転籍が遅れたために、オッチャンはまたまた、一平卒のような仕事からスタートした。ありゃあ、以前の部下の「部下」になってしまった。だが、元々素質のあった(^O^)オッチャンは、コツコツと新規得意先の開拓に励み、もりもりと地力をだし何とか数年でカムバックを果たした。そして仕事のかたわら? 飲み屋がよいもまたはじめたのだ。こうして、中国語との触れ合いが再開することとなった。 オッチャンの目的とする店は、以前に銀座のバーでホステスをしていたママが経営するカラオケスナックである。会社からは歩いて5分もかからない。近くの安い居酒屋で一杯飲んでから出かける。ママさんはオッチャンがいくと、中国人ホステスを差し向ける。こうして、若く聡明な中国人留学生との交流が始まった。 |
中国語との触れ合い 4
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中国語との触れ合い 5
当時、受講生は20数名いて18人が定員の教室は溢れんばかりだった。教師は呉先生(女性)と藩先生(男性)が2週ずつ受け持っていた。呉先生は千葉大学の大学院で日本文学を専攻していた。 藩先生の日本語はちょっとだけ怪しいところがあったが、我々の中国語に比べれば問題なく遥か遠くの存在であった。呉先生は得意の!(^^)!中国語に加え日本語も関西弁を折り込むなど我々受講生を煙に巻いたものである。 語学は継続が難しい。特にほとんどの受講生は高齢者だから続けることも至難のことだ。オッチャンは呉さんにそう告げて彼女の心を和らげたものである。 |
中国語との触れ合い 6
役柄 大奥総取締・絵島・・・仲間由紀恵 <天英院派> 6代将軍御台所・天英院・・・高島礼子 この中で、大奥上臈。滝川に扮する浅野ゆう子が香港などでも、「滝川、滝川」と追いかけられた話をしていたが、とんだ間違いを発言していた。たぶん滝川小姐と呼ばれたと思うが、滝川小姉(たきがわ・しょうねい)と言われたと話しているのが気になった。これは滝川小姐(プゥプゥチュアン・シャオチエ)と呼ばれたはずなのである。 もう一つ、これは朝日新聞の海外旅行広告欄で本日22日、日本語と中国語が混同して使われているのを見つけた。混同というよりも完全なミステークである。全日空で行く「感動の世界遺産」と銘打って中国の黄山(こうざん)、屯渓(とんけい)、杭州(はんじょう)とあった。 前の二つは日本語読みである。ところが杭州は、日本語読みなら「こうしゅう」となる。中国語読みで無理にカナをふれば、ファンチョウとなる筈なのだ。どう間違えても「ハンジョウ」とは読まない。 |
中国語との触れ合い 7
オッチャンが生まれたその年だ。何も知らない軍国少年として育ったものだが、その後の学習や聞き取りによって、日本軍の残虐行為を知ることとなった。様々な資料をみれば日本の侵略戦争は明白な事実なのに、わが国の首相は、嫌がる中国や韓国の頼みも聞き入れることなく「心の問題」という一言で片付け、戦犯の合祀された靖国神社に参拝する。 いつ行ってもイチャモンをつけられるならと、遂に今年は8月15日に参拝を強行した。首相の言い分には心の問題のほかに、「内政干渉だ」ということがある。日本軍の一方的な侵略によって国土を蹂躙され、数千万人もの人たちが殺略された中国側とは見方がまるで違う。 靖国神社に付属する遊就館をみれば、神社の姿勢・思想は一目瞭然だ。要するに軍国主義賛美の軍事博物館を自称しているのだから。 |
中国語との触れ合い 8
唖然としたのは、黄山(こうざん)、屯渓(とんけい)、杭州(はんじょう)とフリガナがついている。前2者は日本語読みのフリガナで間違いはない。杭州は、どう考えても(こうしゅう)と読むことに誰も異存はあるまい。ところが(はんじょう)だ。なぜ統一した日本語表記にしないのだろう。これは何処の国の言葉か。もちろん、中国語読みで書いたつもりに違いない。 翌日の朝、どういうつもりなのか旅行会社に電話してみた。旅行会社だから、オペレーターなしで直接担当者が出てきた。「なぜ三つの地名のフリガナが違うの」「一つは中国語の読み方です」「おかしい、杭州のふりがなは違いますよ」「いや、正しいです」なーんていうやり取りが交わされた。 その前日には、ADSLから光ファイバーに切り替えた。プロバイダーはニフティである。ニフティの窓口の女性は実に親切丁寧に対応した。こちらは充分に満足して実際に来られる技術者を待った。その方からは、「あと数分で到着しますがよろしいですか」と電話があり予定通りに来宅した。光ファイバーの接続も、勿論のこと慣れたものであるが、ほかの質問などの対応もとてもよかった。彼は即座に、工事完了のメールを会社に送信していた。 問題はそのあとである。ニフティからは受付窓口の対応などに関して、その満足度などのアンケートがメールで送られてきた。さらに技術者が帰ったあとも、同様のアンケートが送られてきた。このようにしてアフターフォローをしっかりと、おこなっている。 |
中国語との触れ合い 9
中国語学習の発端となったものの一つに、ある日の新聞に40歳代の主婦が「40からでも間に合う。これから勉強して中国語の通訳になる」と出ていたことがある。そんなことがオッチャンの学習意欲に火をつけたようだ。たまたま日中友好協会の中国語教室のお世話係りが回ってきた。 どうしても怠け心が出る。自分の心に言い訳を用意してしまう。本来目標としたところから異なったところに、いつの間にか変わっているのだ。おかしいなぁ。本当はもっと上に定めた目標がぐーんとさがっていることに気づく。日中辞典や中日辞典も小さなものではなく、本格的なものを揃えた。上海短期留学したときには、市内の外国人向け書店を訪ね、さまざまな本やテープも求めた。また現地の音楽CDやDVDなども買い求めて意欲満々だった。その後、パソコンでも中国語の打てるソフトも購入し、電子辞典も手元にある。これほどまで心を注いだ意欲は何処へ消えたのか。それは単なる怠け癖か、それとも年齢によるボケ症状のためか。いずれにしても、更なる軌道修正はしなければならない。 慌てて修正を試みるが弱い自分を修正できないでいる。そんなことで、学習したことはその日限りで忘れてしまい、何時の間にやらスタートしたときの初心者に戻っているのである。こんな自分だが、まだ見切りをつけたわけではない。明日に向かって心を改めよう。そうしなければ、生きている値打ちがないぞ。 |
中国語との触れ合い10
ところが旅行費用などを払い込んだ直後に、彼の会社ではKさんを上海にある中国との合弁会社へと転勤の辞令を出したのだ。突然のことゆえ、その補充に中国語をはじめて僅か1か月の彼の友人を連れていく羽目になった。私は引率される立場だから、暢気に構えていたら逆の立場になり、大いに泡を食ったものである。 Kさんは上海の会社では支配人代理である。中国人秘書を使い、存分に現地で中国語を物にしたかと思っていたが、そうでもなかったらしい。事情を知らないオッチャンなどは、上海で仕事をして、中国人と生の会話を交わす毎日とは羨ましい。さぞかし、さぞかし満ち足りた生活と想像していたものだが。そんなことより、日本の会社特有の猛烈サラリーマンたることを強制されていたのかなぁ。 |
SINSE:2006/03/18(Sat) by.CHIHARU. All rights reserved. MAIL |