昼の散歩道The Original Works by CHIHARU

 新たな出会い

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日光連山と大谷川の清流                 撮影  尾郷 賢氏

新たな出会い 1

画像2  オッチャンがパソコンなるものに手を染めてから、ほぼ9年近くになる。いや、実はもっと前になりそうだ。マイクロソフト社のWINDOWS95が発売され、パソコンが一般的に認知され使いやすくなる前から、オッチャンは小さなパソコンで遊んでいたのだ。
 パソコンという言葉よりも、むしろマイコンというほうがピッタリするような小型のものであった。その代物はMX2という名前のコンピューターである。よく分からないがDOSVとかいうもので、定められたコンピューター用語を入力すると起動し、オッチャンでも簡単な作曲はできたものである。
 これはWINDOWSの出現で今では何処にも見当たらないが、かつて、オッチャンにとっては宝物のような存在であった。発売当時、松下電器とソニーがこの分野に進出していた。大手電機メーカーが進出していたわけだから、ソフトも結構充実していた。
 物好きなオッチャンは、いろいろと関連のソフトを買い集めた。趣味の囲碁ソフトは10万円もしたが、高揚した気分を抑えられず次々と購入していったのである。肝心のパソコン本体は2.5万円程度であったのに...だ !
 その小さなパソコンをテレビに繋いで遊ぶのである。よく分からないが、テレビにRGBという端子がないとパソコンが使えないのである。今思えば、それに見合ったテレビを求めるために、秋葉原界隈をウロウロと彷徨い歩いたものである。振り返れば、そんなことのために、随分と多額な投資をしたもんだなぁと思う。
  考えてみれば、ソニーのプレイステーション開発のお手伝いで僅かな小遣いを使わされていたのだ。上手くやられてしまったなぁ。


新たな出会い 2

画像3  そのうち、難しい言語を操るのことに直ぐにくたびれてしまい、毎日のようにマージャンソフトと囲碁ソフトで遊んでいた。会社から帰ると、飽きることなく寝るまで弄ばれてしまった。うまく出来たもので、知性豊かな ? オッチャンを単純なゲームに誘い込んだものである。安価な本体の割には、ゲームソフトはかなりしっかりしたものであった。このようにして、初期のパソコン時代は終わった。まことにアホーな時間を空費したものだが、これが遅ればせながら、会社に導入された業務用パソコンでは大いに役にたった。
 やや暫くして、崩れかかった会社の経営に嫌気がさした社長がさっさと会長に就任してしまい、つぎにはオッチャンと同期生が後任の社長に就任した。これが無類のコンピューター狂で、既に自分で会社のホームページなどを立ち上げていた。しかし社員の大半は、そんなこと知らないし、パソコンなどは当然のことながら持っていない。
 そんな時代であった。彼はすべての報告などをパソコンで行うよう、携帯用のパソコンを中枢の社員全員に配布したのである。これはNEC製のモバイルギアという受発信機であった。僅かながらも知識のあったオッチャンは、若い社員よりも遥かに上手く使いこなすことが出来たようである。
 これが切っ掛けで定年を2年後に控えているというのに、オッチャンはノコノコと秋葉原に出かけ、1台のパソコンとプリンターを購入してしまった。10年近く前でも、両方合わせて20数万円した。これがオッチャンとパソコンとの本格的な「新たな出会い」となったのである。


新たな出会い 3

画像4  小さな会社にいたから、ヒマ人には様々な仕事が回ってくる。人の良いオッチャンは前社長に騙されて ? 監査役に飛ばされていた。ブツブツと、会社の方針に物申す人間は、何時の世も胡散臭いものであろう。自分から一番遠いところへ置いておくのが無難というものである。
 そうか、分かったよ。それなら惰眠を貪るかと思っていたら、社内LANの一つ、社員みなが気軽に書き込める「気楽亭」というセクションの亭主にまつりあげられたのである。
 これが結構面白かった。オッチャンは営業の第一線を離れ、今や監査役ならぬ閑査役なのである。毎日、新聞を隅々まで眺め、飽きるとウトウトと惰眠を貪る。女子社員が10時や3時にお茶を入れに来ると、サッとその前に目が覚める。そんな特殊な技も身につけていた。これも、訓練の賜物である。
 優秀な我輩を使わずに会社は発展するものか、と変に開き直っていた節がある。それを見透かされて、社内パソコン通信の一角、気楽亭のオヤジに昇格 ? せしめられてしまったというわけである。
 「閑査役」という立場にいると、世の中や会社の内情がよく分かってくる。なにせ閑だから、時間を経過すると結構な知識も身につけてくるものだ。
 元々は「監査役」なのであり、それは取締役の業務(もちろん社長も含む)を監視する立場におかれいる存在なのである。それが監査役の最重要な仕事であることは、商法で明確に規定されている。いつの時代も悪の種はつきない。監査役や監査法人のズサンな仕事も、指摘されて随分と日にちが経過している。この問題は、今の商法では絶対になくならないものなのである。
 これについては、いずれかの機会に厳しく法の網の目を糾弾したいものと思う。
 世の中にはおかしな出会いがあるものだ。でもまた、楽しい出会いも多い。オッチャンは限られた生命の中で貴重な出会いは大切にしたい。我々が生きているうちに出会える人なんか、ほんとうに知れている。それを大事に育てることこそが、オッチャンの残る仕事なのかも知れない。


新たな出会い 4

画像5  始めてのPCはNECのバリュースターであった。秋葉原の電気街をあちこちウロつき、いろいろなメーカーの商品を見たり、カタログを集めて回るのは結構楽しいものである。胸をワクワクさせながら、これから訪れるであろうパソコン生活を心に描いていた。
 秋葉原は、会社のある中央区の蛎殻町から歩いても行ける範囲だ。ただし、ちょっと運動する心積もりも必要だ。しかしパソコンは、年老いた?オッチャンにとっては、まったくの新兵器である。触ったこともなければ、操作なんかしたこともない兵器を購入するのは難しい。どんな機種がお似合いなのか、さっぱり分からない。最後は、知名度のあるメーカーと価格を決め手とするしかない。分からぬままに、これぞと心に決めた機種のカタログを持参し、会社のコンピューター室長に、「これでどうか」と、お伺いを立ててみた。

 室長といっても、オッチャンよりも遥かに後輩である。でも、パソコンの知識と技能面では遥か遠くの上司と考えねばならない。ここは敬意を表して、ひたすら教えを乞うしかない。そしたら彼は、「これで充分ですよ」と仰る。
 こうして機種が決まり、いよいよオッチャンのパソコン人生の始まりである。新たな出会いは何事も決断力一つだ。何しろ当時、社員で家にパソコンを所有している者なんか、ベテランのIT社員がほんの数人だけしかいなかったのだからなぁ。
 一般社員の所持していた携帯パソコンのモバイルギアは、電源に端末を接続させるだけで受発信が出来る代物である。それでも、中年に差しかかった課長や支店長、営業所長などで、自在に使いこなせる人間は殆んどいなかった。オッチャンは、このようなメカには格別な興味があった。いつも好奇心だけは旺盛なのだ。とかく新しい物には目がない。そんなことで、皆よりは一歩も二歩も先行してノウハウを吸収し、悠然としていたものである。
 当時は、いわゆるパソコン通信の時代である。受信や送信をセットすると、社内LANに設けられた業務、営業、製造などの部門を一巡りしてくる。そして、各部門から発信された情報を読み取ることが出来る仕組みだ。海外への出張者が現地から我々に送信してくる様子を見て、これは素晴らしい時代の幕開けが到来したと、ホトホト恐れ入ったものだったなぁ。


新たな出会い 5

画像6  オッチャンは営業も離れてしまい、海外への出張など訪れることもない。なにせ、社長の監視役(監査役=閑査役)だからなぁ。それゆえ、身軽に動けなかったのは、まことに悔しい。自前のパソコンを使い出してからは、夜中になるといろいろと細工したメール(文章だけだが)を「気楽亭」に発信していた。いっぽう発信に臆病な社員たちは、受信したメールをただ眺めるだけだ。

 だが、下関の工場長をしていた後輩(と言っても年齢は同じ)が、オッチャンの発信に対応してくるようになった。一般社員は、両人のメールのやり取りを、ひっそりと見守っている感じだ。そんなことで、気楽亭の亭主は言いたい放題のことをメールで流していた。いわば二人で漫才をやっているようなものであった。
 この様子を入社同期の新社長は、苦々しく見ていたに違いない。あるとき、「ちはるさん、もう少し品良くやってくれませんか」と恐る恐るオッチャンに申し入れがあった。しかし、すっかり自信をつけたオッチャンは、軽く聞き流し表向きは無駄な抵抗はせず、相も変わらず勝手気ままにやっていた。トップの意向とは逆に、オッチャンは次第に社内での評価を高めていったものである(^O^)。
 「情報は流す人に多く集まる」とは正にそのとおり。時期を心得た軽妙な話題をつぎつぎと流した。これが功を奏し、本業の「閑査役」の仕事にも大いに役にたった。会長や社長、主要な経理マンの握る機密情報も、自然と耳に入ってくるようになった。
 意図したことではなかったが、メールの効用は大きかった。気楽亭のオヤジは、パソコンを通じて多くのファンと社員の信頼感を獲得した。これ、本当かな(^O^)。まぁ、新たな出会いと親友の輪を広げたのは事実だろうなぁ。


新たな出会い 6

画像7 40年近く勤めた会社人生が終わったのは、平成11年の3月である。この日を心待ちしていたオッチャンは早速、長年の趣味であった「日本歩け歩け協会(現:日本ウォーキング協会)」に入会し、毎月おくられてくる情報誌をみては近隣地区のイベントに参加しておった。

 そのうち、せっかくの自前のパソコンを使わぬのは勿体無いと、ニフティフォーラムの囲碁サークルに加わることにした。プロバイダといえば、今ほど多くなかったし、会社そのものがニフティで統一されていたから必然的にニフティになった。

 メールソフトは会社時代からの継続で、AirCraftという特殊なものを使用していた。
 「パソコン通信」という概念からいくと、このメールソフトは至極便利なもので、オッチャンにとっては貴重な存在だった。実はOutLook Expressなるものをよく知らなかった、いうことにもなるのだが。

 このAirCraftに乗り、登録したニフティのフォーラムを一巡してくるのである。一回りしてくると自然とオフラインになるシステムだった。当時は、当然のことながらダイアルアップ方式だ。
 ウッカリ、オンラインにしておいたら大変高額な接続料金が請求されてしまう。それで「必要な作業をこなし、自然と停止する」メールソフトはありがたい。オッチャンにとって、宝物だったのは言うまでもない。

 囲碁フォーラムに入り、実際に打ち始めるにはえらく苦労した。インターネットに接続し、ソフトをダウンロードしなければならない。掲示板に入って、「こちら62歳のオッチャンでーす」と発信したら、「こちらも65歳のオッサンでーす」と返事がきた。
 このオッサンに手取り足取りで教えを乞い、やっとPGotermという囲碁ソフトを入手し、対局開始にこぎつけたわけだ。
 今や当方も進化した。オッサンも病気がちで、ご対面といかなかったのはまことに残念である。


新たな出会い 7

画像8  ウォーキングでは面白いこともあった。大晦日のそれこそ午前零時に東京・王子神社にお参りし、それから都内の10社めぐりをするのだ。王子神社を出ると湯島天神に向かう。♪ゆしま通れぇぇばーおもぉいだーす♪なーんていう粋なところである。つぎは何処だったかなぁ。銭形平次のあれだ。男だった〜ら〜ひとつにか〜け〜る〜♪
 ♪道は時には、曲がりもするが、曲げちゃならない人の道 何処へ行くのか、何処へ行くのか、銭形平次〜
なんだ神田の明神下で〜というわけで、神田明神に行く。こちらスタコラ、スタコラと歩いていくと前方にフト明るく輝くところが見える。ずいぶんと人がいるようだ。近寄ったら、ここが神田明神だった。

 ちょいと一休みだ。着飾ったお姉さんがたくさんいる。それに昔の別嬪さんも、たくさんおられるようだ。疲れに効く薬は、やっぱりおなごかな。それともお神酒か。いや甘酒がいいなぁ。一杯100円也。こりゃあ、やっぱりいける。さあ、また出発だ。坂を下りようとしたら、なんと銭形平次親分の碑があった。誰だ、こんなものつくったのは.........。平次生みの親・野村胡堂でも顕彰したのかな。
 まぁいいや、てなことで次の亀戸天神に向かう。東京勤務でも、日頃みたこともない。なかなか中は広い。そそくさと、門前仲町へと向かう。ここは富岡八幡宮である。でもなぁ、いつも会社の仕事できていたから、どうでもいいや。ここで、有名なたこ焼きを食べて腹ごしらえだ。そのうち、東の空が明るくなってきたよ。

 一緒に歩いてきた麗しき女性が差し入れをくれる。これだから、ウォーキングとて馬鹿にならない役得もあるというものだなぁ。しばし初詣にくる、着飾ったねえちゃんたちを眺めて休憩だ。
 リーダーは「飛鳥山あるけあるけの会」の75歳にもなるオッサンだが、その早いこと。息をきらして歩かねば到底ついていけぬ。やっぱり日頃の鍛錬がたりなかったなぁ。もう。


新たな出会い 8

画像9  門前仲町から永大橋をわたる。いつもは車でごったがえすところだが、流石に今日は元旦だ。まだ朝も明けていないのだなぁ。へんに静けさの漂う橋をわたりきり、隅田川のほとりの小さな公園に降りて元日の日の出を待つ。

 付近が異常に静まりかえる中、じわじわと空に日差しが映え赤みが差してくる。いろいろな雲の形がみえる。日の出というのは、お日様がすっかりお顔を出す前の一瞬がよいもんだなぁ。富士の高嶺からのご来光も見事なものだが、都会のど真ん中でのおてんとう様も悪くはないな。なーんて思う。

 オッチャンも感傷的になるもんだ。東の空を見つめていると、近くのビルなども次第にその形をあらわに見えてくる。そんなビルの隙間からのお日様のお出ましだ。どんなとこでも、初日の出とはいいものと感動した。
 そういえば、この前「感動した」のはいつだったかなぁ。お金使って乱費して遊んでも、感動するものではないな。会社で表彰されたときかな?そんなことなかったか。

 そうだ!おもいだしたぞ。貧乏人の小せがれが柄にも無く浪人したときだな。親戚の家に居候してこき使われた末に、合格の発表をもらったときだ。思わず涙がこぼれてきたもんだ。号泣したものだったなぁ。あんな感激、いや感動にまた出会いたいもんだ。新たな出会いは、待っていてはこないものだ。よし、これからもがんばるぞ!!
永大橋からは日本橋、大手町を経て東京駅を横目に皇居前に出る。車の少ない都内はいいものだなぁ。真冬というのに、緑鮮やかな皇居前広場。広い道路に車もポツリ、ポツリ。皇居をぐるりと廻って国会議事堂脇から日枝神社に入る。神社裏から一般道路に降りたら、別のウォーキンググループに会う。

 何と90歳のおじいさんが元気いっぱいだ。ここで、オッチャンも少し分け前を貰って最後の品川神社まで、やっとこ辿りついた。最後の5キロがなかなか走破できないものだな。足が棒のようになって、進まないものだ。品川に着いたのは、午前10時。10社めぐりは10時間かかって終わりをつげた。
 疲れはしたが、気分はまことに爽快也。何事も完走が大事だな。


新たな出会い 9

画像10  都内でのウォーキング大会では、おそらく朝日新聞が主催した「伊能ウォーク」が最後だったようである。それは、一年間にわたる全国縦断「伊能ウォーク」の最終日であった。自宅からはまぁまぁ近いし、川崎から東京・日比谷公園までの10キロ程度なら、楽々歩けるからなぁ。この日、朝日の社旗を先頭に数百人もの人々が参加した。

 オッチャンは、てっきり映画で伊能忠敬を演じた加藤剛が参加するものとばかり思っていた。この大会では加藤は名誉隊長だったこともある。だが彼は来なかった。ちょっとまずいのではないか、と思ったよ。せっかく我輩が参加したのになぁ。ところが加藤のオッサンは、最終ゴールの日比谷公園で、我々を迎える役目を演じたというわけである。それで、少し気分も落ち着いたというものだ。

 その少し前には日蘭交流400年周年記念ウォークに参加した。ちょうど2000年のことである。1600年の江戸時代前からオランダとの長い付き合いがあったわけだ。そのオランダゆかりの旧跡などを訪ねて歩いた。オランダといえば長崎かと思えば、そうでもないんだなぁ。都内にも数々の名残りがあることを認識したものだ。
 その日は、横須賀に駐屯するオランダの海兵隊員も数10名が参加した。彼らは自国の?マーチを合唱しながらテンポ良く歩く。というよりも行進か。とにかくどえらくデカイうえに、はたち前後の若者だ。元気がいいし、皆そろってハンサムなのだ。オバチャンたちが喜んだことは、いまさら言うまでもない(^O^)。

 歩くことで、日頃は全く気にしない事柄に出会うものだな。電車や車では絶対に巡り合えないものがある。シーボルトの像もあり、杉田玄白先生のお墓もあった。清楚なオランダ大使館も、始めて外から(当たり前だ!)拝謁させてもらった。まさか、と思うことがたくさんあるものなんだ。そして何よりも、一緒に歩いた人々との交流がある。

 ちょっと見て、「足が悪いな」と思われる方たちも元気に歩く。決して弱音は言わないな。オッチャンと同年輩のオバチャンとも知り合いになった。飲み屋のオバチャンもいた。その方々にその日写した写真を送ったら、皆さんからご丁寧なお手紙をいただいた。
 嬉しくなったオッチャンは、二度と会うこともない方であろうが、その記念写真を今も大事にしまってある。


新たな出会い10

画像11  都内から神奈川、埼玉近辺のウォーキングを終え、オッチャンは地元・千葉へと戻ってきた。「千葉歩こう会」に所属することになったからだ。日本歩け歩け協会の下部組織である。定期的に案内がくるので、オッチャンは軽いリュックを担いでノコノコと出かけていくのだ。
 千葉氏に由緒ある旧跡や古来の神社仏閣などの目標が設定され、歩こう会の緑の幟を掲げて街中も颯爽と歩く。また澄み切った青空の下、野原や田んぼをそれぞれのペースで歩いてゆく。荷物はペットボトルのお茶とおにぎり程度だから帰りは何もなしだ。</P><P> こんな仲間たちとの交流を経て、あるとき海外遠征をしようとの話が持ち上がった。中国北京市郊外から、万里の長城まで18キロを歩く計画である。たちまち48名ほどが集まった。旅行会社の説明会に行ったら若者は見当たらない。中高年のおばさんやおじさんばかりだ。</P><P> かくしてオッチャンも旅費を工面し、始めての中国旅行に出かけることとなる。スーツケースは持参したものの、姿形は、リュックを背負ったいつものウォーキングスタイルと変わらない。皆はと見れば同様な格好だった。
 北京到着の第1日目、ホテル到着前に市内観光を済ませる。翌日はバイキングの朝食を摂ると早速バスに分乗し、長城へと向かう。自転車やバスなどで混雑する中心地を抜けると、田舎道路をまっしぐらに走る。年配のガイドのおばちゃんが、いろいろと説明してくれる。
 そんなとき、ハプニングが起きた。ガイドのおばちゃんが説明をサボり始めた。突然、オッチャンがマイクをとり、何と中国語を使ってちょっと前に覚えた歌を披露したのだ。テープに録って何度も歌い覚えたものだから、一応暗記している。
 お客さん?たちは、中国語なんてまるで知らない。まんまとオッチャンに騙されてしまい、それ以後、オッチャンは中国通として知られる存在となった(^O^)。


SINSE:2006/03/18(Sat) by.CHIHARU. All rights reserved. MAIL

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