昼の散歩道The Original Works by CHIHARU

 中国語との触れ合い

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今市市街から見た日光連山            撮影  尾郷 賢氏

中国語との触れ合い 1

画像13  オッチャンの中国語とのつながりは、実のところ結構古い。閑査役(監査役)を務めていた54か55歳頃だっかなぁ、たまたま当地の国際交流協会で、中国語教室の講座が開講されることになった。何しろ閑をもてあましていたから、挑戦すべきものを絶えず模索していたのである。

 これ幸いにと、講座への参加を申し込んだ。地元での語学講座であり、お値段も格安だったから、さっそく飛びついたという次第だ。そんなことで、規定の退社時間ともなると、社員の誰よりも早く会社から抜け出たのはオッチャンである。ついでにもう一人の先輩同僚も一緒に飛び出した。

 毎週木曜日に行なわれる講座に出席するためには、5時30分の終業ベルが鳴ると同時に会社を出なければならない。それでやっと、7時30分からの開講時間に間に合うのだ。そんなことで、オッチャンは社員の誰よりも早く会社を後にすると、一目散に最寄の駅へと向かった。
 当時の講師は、パン・ユンフェンという名の中国人女性だった。すでに、地元唯一の著名な企業である、精工舎に務める日本人と結婚していた。それで、確か日本名は金子夏美さんと言っていた筈である。このあたり、結構忘れていないのはたいした記憶力であるなぁ?

 誰が選んだか知らぬが、当時の教科書はB5版よりも小さく、いかにも薄く、安っぽいものだったなぁ。いま取り出してみると、漢字にカタカナでふりがなが結構目立つ。こんなに出来が悪かったのか!これは発音に鈍感な、オッチャンの資質を物語る一端かも知れない(^O^)。

 でも真面目に勉強はした。購入した録音装置つきの小型ラジカゼを持参し、きっちり録音し復習もしっかりやったもんだ。たが、こんな熱心な勉強家を悩ませる事変が勃発した。本業の監査役として、全国各地の監査で1年に二度はあちこちの支店や出張所に出かけねばならないのである。

 ノルマのない勉強というものは、休みが続くと永続性を失う?そんなことで、一年目は半年で挫折し以後出席することなく一杯飲み屋に通うことが多くなってしまった。つぎの年もまた、同じ講座に参加した。あらまぁ、てなことでパン先生は歓迎してくれた。
 だがこれも、半年の寿命で終わった。これでオッチャンは、中国語との縁は切れたのか。どっこい、ここから新たな出会いが始まったのである。


中国語との触れ合い 2

画像14  僅か2年、それもみな半年で挫折し落ちこぼれた中国語受講生だったが、幸いにも、オッチャンと中国語との縁は切れなかった。今もそうだが、中国人の日本への留学生や就学生は当時も多かったなぁ。彼らは生活費を稼ぐために、あらゆる職場で働いていたものである。

 勤め先のあった日本橋・人形町界隈の中国料理店はもとより、昼の定食屋、ファーストフッド店、そして居酒屋など様々な店で、若い中国人男女を見かけたものだ。
 オッチャンと中国人との接点は、馴染みにしていたスナックが主流であった。それらのスナック店に入り込むまでには、いろいろな変遷がある。

 話がちょっと飛ぶ。
バブル期以前から、たまたまオッチャンは或る部門の本部長直轄・業務課長という職務にあった。身分は課長だが、全国部課長会議などを招集し、その進行係を務める。そんなことで部長職並みの勢いがあったものである。

 普段は要領が悪いオッチャンも、同じ酒飲みということで本部長のお供でよく高級料理店や銀座のバーなどに同行した。酒飲みは、やはり自分の都合の良い部下を連れて行くものだ。オッチャンは、そのおこぼれに預かった。ほかに話が合う部下が少なかったのか、当方が夕方からの絶好の標的とされたのだ。こちらはただ酒だから、何の不満もない。
 飲み屋とかバーは全てツケだから、ひと月もすると請求書が送られてくる。本部長はその請求書に、だれそれ氏の招待などと書き込み、わがほうに廻してくる。よく眺めてみれば、先日、我々仲間うちで行ったものではないか。だが、不審に思ったのも最初のうちだけで、次第次第に会社の交際費を身内で使うことに慣れていったのである。

 かくして田舎者のオッチャンも、いつの間にやら都会のど真ん中・銀座の常連となって、酒と色気におぼれていった。帰宅は12時を過ぎるから、タクシーでまっしぐらに帰る。身分の一番低いオッチャン??は、順繰りに上役を家に送りとどけ、最後に我が家に帰る忠犬ハチ公となっていたのだ。
 かような経験のゆえに、得意先の毒牙にかかり、将来を約束されたエリート官僚が身を落としていく気持ちは痛いほどに分かる(+_+)。

 いつの世も精錬潔白のままに過ごすのは難しい。もちろん、銀座の一流高級バーでは、中国人の姿はみかけることはなかった。酔うほどに美しく見えた、日本女性(実はかなりのオバチャン)の色気と巧みな話術に攪乱される日々であった。


中国語との触れ合い 3

画像15  バブル崩壊を契機に、オッチャンの在籍した会社もガタガタと会社存立の基盤が崩れ、会社分割によって生き残りを図ることになった。
 オッチャンはといえば、銀行から派遣されてきていた経営陣の一角から、別会社に移るよう日々催促を受けていた。「早くしないと、行くところがなくなるよ」と毎日のようにせっつくのだ。彼らに言われるときにはガンとして言うことを聞かず、ある日突然自ら申し出て、通いなれた千代田区三番町から、日本橋人形町に近い蛎殻町の子会社に転籍することになった。

 この辺はその昔、西郷隆盛などの屋敷があったところである。現代的な建物に囲まれた千代田区界隈とはまったく景観もちがうし、昔ながらの佇まいを残す街並みがあった。元々田舎の出身だから、このほうが身の丈に合ったようだ。

 転籍が遅れたために、オッチャンはまたまた、一平卒のような仕事からスタートした。ありゃあ、以前の部下の「部下」になってしまった。だが、元々素質のあった(^O^)オッチャンは、コツコツと新規得意先の開拓に励み、もりもりと地力をだし何とか数年でカムバックを果たした。そして仕事のかたわら? 飲み屋がよいもまたはじめたのだ。こうして、中国語との触れ合いが再開することとなった。

 オッチャンの目的とする店は、以前に銀座のバーでホステスをしていたママが経営するカラオケスナックである。会社からは歩いて5分もかからない。近くの安い居酒屋で一杯飲んでから出かける。ママさんはオッチャンがいくと、中国人ホステスを差し向ける。こうして、若く聡明な中国人留学生との交流が始まった。


中国語との触れ合い 4

画像16  オッチャンが通い始めたそのスナックはパロスと称した。
人形町のメイン通りから一つ裏手のビルの地下にあった。たいていは真っ直ぐ行けるが、飲みすぎているとそれでも間違えて、周囲をグルグルと廻ったりする。酒は、いくら飲んでも同一料金、カラオケも歌い放題だから余計にふんだくられる心配はない。ママさんは以前からの知り合いだ。オッチャンの歌うものはすべてご存知である。黙っていても直ぐにオッチャンの持ち歌をかける。
 そんなことで、酔っ払いが調子に乗って歌っていたものである。


中国語との触れ合い 5

画像17  中国語の学習が本格化したのは、1999年の5月頃に日中友好協会の千葉支部に加入してからになる。
 オッチャンの頭がボケたとも思われぬのに未だに、なぜ日中友好協会に入会したのか、その理由が分かっていないから不思議なものだ。別に誰か友だちに誘われた記憶もないのにある日のこと、協会で主宰する中国語教室のお世話係になっていた。

 当時、受講生は20数名いて18人が定員の教室は溢れんばかりだった。教師は呉先生(女性)と藩先生(男性)が2週ずつ受け持っていた。呉先生は千葉大学の大学院で日本文学を専攻していた。
 もともと、中国北京の外国語大学で日本語を教えていたせいか、達者な日本語を話した。顔も日本人に近く、まるで何処からみても、日本人と変わらない容姿でもあった。

  藩先生の日本語はちょっとだけ怪しいところがあったが、我々の中国語に比べれば問題なく遥か遠くの存在であった。呉先生は得意の!(^^)!中国語に加え日本語も関西弁を折り込むなど我々受講生を煙に巻いたものである。
 授業ではズバリと指名するから皆さん戦々恐々としていたのが印象に残る。授業では厳しい呉さんではあったが、よく気配りする人でもあった。授業についていけず、ついに脱落する受講生も出てくる。75歳も過ぎると理解するのも遅くなる。そんな人がとうとうやめたとき、彼女はとても心を痛めたようで、帰り道にはオッチャンに自分のせいでもうしわけないと謝ることも多かった。

 語学は継続が難しい。特にほとんどの受講生は高齢者だから続けることも至難のことだ。オッチャンは呉さんにそう告げて彼女の心を和らげたものである。


中国語との触れ合い 6

画像18  今日、msnのビデオ版で大奥(2006年映画版)の6人の美女俳優がその役柄やエピソードを語っていた。
正式名「大奥ОH!ОKU〜」。前シリーズ華の乱終了から約半年後にあたる、7代将軍家継の時代にあったとされる「絵島生島事件」をモチーフとした映画を製作することが東映から発表された。
主演には仲間由紀恵、浅野ゆう子、高島礼子、井川遥他。2006年12月23日公開予定である。

役柄
   <月光院派>

大奥総取締・絵島・・・仲間由紀恵
将軍生母・月光院・・・井川遥
大奥御中臈・宮路・・・杉田かおる
間部詮房・・・・・・・及川光博

   <天英院派>

6代将軍御台所・天英院・・・高島礼子
6代将軍側室(天英院付上臈)蓮浄院・・・松下由樹
大奥上臈・滝川・・・浅野ゆう子
<大奥女中>鷲尾真知子、山口香緒里、久保田磨希

 この中で、大奥上臈。滝川に扮する浅野ゆう子が香港などでも、「滝川、滝川」と追いかけられた話をしていたが、とんだ間違いを発言していた。たぶん滝川小姐と呼ばれたと思うが、滝川小姉(たきがわ・しょうねい)と言われたと話しているのが気になった。これは滝川小姐(プゥプゥチュアン・シャオチエ)と呼ばれたはずなのである。
だが、「滝川」と日本語でその役柄の名称を呼ばれていた可能性はある。しかし「小姉」は絶対にないと思われる。日本語と中国語を全く混同していた。

 もう一つ、これは朝日新聞の海外旅行広告欄で本日22日、日本語と中国語が混同して使われているのを見つけた。混同というよりも完全なミステークである。全日空で行く「感動の世界遺産」と銘打って中国の黄山(こうざん)、屯渓(とんけい)、杭州(はんじょう)とあった。

 前の二つは日本語読みである。ところが杭州は、日本語読みなら「こうしゅう」となる。中国語読みで無理にカナをふれば、ファンチョウとなる筈なのだ。どう間違えても「ハンジョウ」とは読まない。
これが旅行会社の広告ゆえに、あきれ果てて物も言えない。明日、電話してみることとしようか。


中国語との触れ合い 7

画像19  今年の猛暑、というよりは灼熱の夏はオッチャンの生まれた月でもある。1937年の8月23日、まさに69年前の今日という日に生をうけた。
 1931年9月18日に中国・瀋陽近くの柳条湖付近で勃発した満州事変(9・18事変)は政府の不拡大方針にもかかわらず、軍部の独走を抑えきれずに1937年7月7日の盧溝橋事件から日中全面戦争へと突入していった。

 オッチャンが生まれたその年だ。何も知らない軍国少年として育ったものだが、その後の学習や聞き取りによって、日本軍の残虐行為を知ることとなった。様々な資料をみれば日本の侵略戦争は明白な事実なのに、わが国の首相は、嫌がる中国や韓国の頼みも聞き入れることなく「心の問題」という一言で片付け、戦犯の合祀された靖国神社に参拝する。

 いつ行ってもイチャモンをつけられるならと、遂に今年は8月15日に参拝を強行した。首相の言い分には心の問題のほかに、「内政干渉だ」ということがある。日本軍の一方的な侵略によって国土を蹂躙され、数千万人もの人たちが殺略された中国側とは見方がまるで違う。
 首相に抜けているのは、被害者の側から見たらどうかという視点だ。これがスッポリと落ちている。強気一辺倒の姿勢は、政治的にまるで敵国同士のような5年間を無為に過ごしてしまった。いや、両国の関係は極度に悪化している。そのツケは友好を求めて訪中する人たちにも影響を与えている。後継首相と評される方も似たような姿勢らしい。これではいつまで経っても、真の日中友好は望むべくもない。

 靖国神社に付属する遊就館をみれば、神社の姿勢・思想は一目瞭然だ。要するに軍国主義賛美の軍事博物館を自称しているのだから。
 こんなのを見たら、中国や韓国の人ならずとも靖国への首相の参拝には拒否反応を示すに違いない。たまたまオッチャンの誕生日には、いろいろなことがあった。今日の出来事は、明日に引き続き書くこととしよう。


中国語との触れ合い 8

画像20  8月22、日朝日新聞の朝刊で各社の旅行広告を漠然と眺めていた。そしたら、とても奇異な広告が目についた。ANAとゆこうグループの会社の中国ツアーの広告だ。「感動の世界遺産=地上の楽園」黄山・屯渓・杭州6日間の旅とある。

 唖然としたのは、黄山(こうざん)、屯渓(とんけい)、杭州(はんじょう)とフリガナがついている。前2者は日本語読みのフリガナで間違いはない。杭州は、どう考えても(こうしゅう)と読むことに誰も異存はあるまい。ところが(はんじょう)だ。なぜ統一した日本語表記にしないのだろう。これは何処の国の言葉か。もちろん、中国語読みで書いたつもりに違いない。
 このような中途半端なことを何故するのだろう? 杭州はハンジョウとは普通は書かないものである。中国語の、難しい発音を無視して敢えてカタカナ表記するならば、(ファンチョウ)か(ハンチョウ)となる。

 翌日の朝、どういうつもりなのか旅行会社に電話してみた。旅行会社だから、オペレーターなしで直接担当者が出てきた。「なぜ三つの地名のフリガナが違うの」「一つは中国語の読み方です」「おかしい、杭州のふりがなは違いますよ」「いや、正しいです」なーんていうやり取りが交わされた。
 挙句の果て、「そのようなこと仰るなら、ほかにたくさん旅行会社がありますから、そちらを選んで下さい」ときたものである。これを聞いて、オッチャンは諦め静かに電話機をおいた。これは窓口女性担当者との会話である。こんなのが窓口にいたら、この会社もそう長持ちはしないだろうと、哀れな気持ちになった。

 その前日には、ADSLから光ファイバーに切り替えた。プロバイダーはニフティである。ニフティの窓口の女性は実に親切丁寧に対応した。こちらは充分に満足して実際に来られる技術者を待った。その方からは、「あと数分で到着しますがよろしいですか」と電話があり予定通りに来宅した。光ファイバーの接続も、勿論のこと慣れたものであるが、ほかの質問などの対応もとてもよかった。彼は即座に、工事完了のメールを会社に送信していた。

 問題はそのあとである。ニフティからは受付窓口の対応などに関して、その満足度などのアンケートがメールで送られてきた。さらに技術者が帰ったあとも、同様のアンケートが送られてきた。このようにしてアフターフォローをしっかりと、おこなっている。
先般、車をトヨタに切り替えたときも同じだった。要点はただ売るだけでなく、その後のフォローをきちんとやれば、次なる顧客に繋がるというものだ。そういえば旅行会社では、旅行の終わったあとに客の満足度を聞いてきた会社は過去にもない。
 どうも一番大切なところが抜けていると思えるのは、オッチャンだけか。見習ってほしいものである。


中国語との触れ合い 9

画像21  人間とはいい加減なもので、本来やりたいことと成すことが一貫しない。所詮は自分1人で生きられるものではないから、その時々の体調や周囲の情勢などで変わるのは止むを得ないものなんだろう。
 しかし、このごろは益々その傾向が強くなってきたようだ。定年前に目標とした事柄がことごとく挫折しているのだ。ある程度までは成し遂げてきたが、そこから極端に進まなくなった。

 中国語学習の発端となったものの一つに、ある日の新聞に40歳代の主婦が「40からでも間に合う。これから勉強して中国語の通訳になる」と出ていたことがある。そんなことがオッチャンの学習意欲に火をつけたようだ。たまたま日中友好協会の中国語教室のお世話係りが回ってきた。
中国人と触れ合う機会が週に一度は出来た。そして彼ら教師の人柄にも触れ、学習意欲は向上した。
 受講生もオッチャンと似たような年齢である。みな頑張るなぁと思いつつ、こちらも一緒に学ぶ気持ちが出てきたものだ。
 中国語にかきらず、外国語をものにするのは至難なものだ。若いうちならば、そして大学受験なみの力を注げば未だまだよいが、定年も終えて、「それでは一つやってみるか」という意欲はあっても継続が非常に困難なものである。いろいろと勉強するための学習本や辞典などをそろえ、かつ中国語教室に通ってもそれなりに語学をマスターした、と言える段階に到達するのは難しいものである。

 どうしても怠け心が出る。自分の心に言い訳を用意してしまう。本来目標としたところから異なったところに、いつの間にか変わっているのだ。おかしいなぁ。本当はもっと上に定めた目標がぐーんとさがっていることに気づく。日中辞典や中日辞典も小さなものではなく、本格的なものを揃えた。上海短期留学したときには、市内の外国人向け書店を訪ね、さまざまな本やテープも求めた。また現地の音楽CDやDVDなども買い求めて意欲満々だった。その後、パソコンでも中国語の打てるソフトも購入し、電子辞典も手元にある。これほどまで心を注いだ意欲は何処へ消えたのか。それは単なる怠け癖か、それとも年齢によるボケ症状のためか。いずれにしても、更なる軌道修正はしなければならない。

 慌てて修正を試みるが弱い自分を修正できないでいる。そんなことで、学習したことはその日限りで忘れてしまい、何時の間にやらスタートしたときの初心者に戻っているのである。こんな自分だが、まだ見切りをつけたわけではない。明日に向かって心を改めよう。そうしなければ、生きている値打ちがないぞ。
 オッチャン、情けないぞ。こんなことに負けるな。  頑張れ! がんばれ!!ガンバレー!!!


中国語との触れ合い10

画像22  この8月半ばに上海から1通のハガキが届いた。差し出し人は、かつて習志野の中国語教室で席を並べたKさんだった。「暑○問候」とある。日本語に直せば「暑中お見舞い申し上げます」ということだろう。中国語だと、同じことが4文字で済んでしまう。漢語とは便利なものだ。
 「会社の早期退職制度を利用して、55歳で退職し上海に来ている。9月から大学に入学するために今、試験勉強をしている」とのことであった。文末には「酷暑」とあったから、この夏は何処もかしこも猛暑、灼熱の元に晒されたようである。
彼は年配者の多い受講生の中では若々しく、スーツをスマートに着こなす現役のバリバリのビジネスマン。大変な好漢であった。
 授業に対する取り組みもひときわ群をぬき、ノートパソコンを持ち込み、要点は全てそのディスクに記録する生真面目さである。あるとき「一緒に上海に留学しないか」との話が持ち上がった。2週間ほどの短期だから、私は即座にオーケーして、その準備を進めることとなった。

 ところが旅行費用などを払い込んだ直後に、彼の会社ではKさんを上海にある中国との合弁会社へと転勤の辞令を出したのだ。突然のことゆえ、その補充に中国語をはじめて僅か1か月の彼の友人を連れていく羽目になった。私は引率される立場だから、暢気に構えていたら逆の立場になり、大いに泡を食ったものである。

 Kさんは上海の会社では支配人代理である。中国人秘書を使い、存分に現地で中国語を物にしたかと思っていたが、そうでもなかったらしい。事情を知らないオッチャンなどは、上海で仕事をして、中国人と生の会話を交わす毎日とは羨ましい。さぞかし、さぞかし満ち足りた生活と想像していたものだが。そんなことより、日本の会社特有の猛烈サラリーマンたることを強制されていたのかなぁ。
 何はさいおき、とにかく、辞めなくともよい立派な会社を途中退社し、上海に行ってしまった。その意気込みには、私も感嘆する以外の何事も浮かばなかった。
 同じ教室からは何人も中国へ長期留学する人がいたが、これほどの方は初めてである。一般的には、60歳を超えてからでは新しいことへのチャレンジは、難しいとは言われている。確かにその面が強いようだ。いまや古希に間近くなったオッチャンには到底無理だ。せめて志を同じくする友の勇気を称え、その成功を心から願っている。


SINSE:2006/03/18(Sat) by.CHIHARU. All rights reserved. MAIL

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